登山を始めたばかりの頃、私は高度感のある場所が極端に苦手だった。
いわゆる高所恐怖症だったのだと思う。
もちろん、展望台やビルの屋上に立てないほどではない。だが、登山道における「落ちたら終わる」という現実味を伴った高度感に対しては、強い恐怖を感じていた。
特に苦手だったのは、痩せ尾根や崩落地だ。
いま振り返れば、それは単純な臆病さというより、「経験不足による正常な反応」だったのだろう。
だが当時の私は、それを理解していなかった。
「自分は登山に向いていないのではないか」
そんなことを真剣に考えていた。
相州アルプスで受けた洗礼
登山を始めて間もない頃、私は相州アルプスの縦走を行った。
当時はまだ経験も浅く、ルートに対する理解も甘かった。
地図を見る習慣もいまほど徹底しておらず、「行けばなんとかなる」と思っていた部分もある。
その中で、革籠石山から仏果山へ向かう区間に、痩せ尾根が存在することを私は知らなかった。
もちろん、注意喚起の看板はあった。

だが、登山を始めたばかりの私には、「危険だから引き返す」という判断が存在していなかったのである。
いまなら分かる。
初心者ほど「ここから先は自分には難しいかもしれない」という撤退判断ができない。
経験がないからこそ、自分の限界も分からない。
結果として、私はそのまま核心部へ突入した。

通過自体はできた。
だが、正直に言えば恐怖で頭の中はいっぱいだった。
横を見る余裕などない。
足元だけを見ながら、一歩ずつ慎重に進む。
「落ちたら終わる」
その感覚だけが強烈に残っている。
下山後もしばらく、その恐怖は抜けなかった。
そして実際、その山行を境に、一時的に登山への意欲が少し削がれたのも事実である。
鎖場より怖かった場所
東丹沢の表尾根には、行者ヶ岳付近の鎖場が存在する。

表尾根を歩いたことがある登山者なら、おそらく印象に残っている場所だろう。
だが実際には、鎖場そのものよりも、その周辺の崩落地の方に強い恐怖を感じる人は少なくないと思う。

私もそうだった。
鎖場は、ある意味では「掴む場所」が明確である。
どう動けばいいかが比較的分かりやすい。
しかし崩落地は違う。
登山道の幅が細くなり、足場が不安定になり、しかも逃げ場がない。
心理的圧迫感が強いのである。
高度感に加え、「地面そのものへの信頼」が揺らぐ。
これが非常に怖かった。
当時の私は、こうした場所に出会うたびに思っていた。
「こんな状態で、本当に登山を続けられるのだろうか」
高度感と恐怖心は等しいのか
当時の私の中では、
「高度感 = 恐怖」
という図式が成立していた。
高度感が強ければ、そのまま恐怖心になる。
だから痩せ尾根が怖い。
崩落地が怖い。
鎖場が怖い。
しかし、登山を続けていく中で、その図式は少しずつ崩れていった。
もちろん、いまでも高度感は感じる。
谷側が切れ落ちていれば普通に分かる。
痩せ尾根を歩けば、「落ちれば危険」という認識もある。
だが、それが以前のように恐怖へ直結しなくなった。
これは非常に大きな変化だった。
高度感を感じなくなったわけではない。
「高度感を感じながら歩けるようになった」のである。
おそらくこれは、多くの登山者が経験する変化なのだと思う。
恐怖心が消えたわけではない
ただし、ここで誤解してはいけないのは、「怖くなくなること」が成長ではないという点だ。
恐怖心そのものは重要である。
危険を察知し、慎重な行動を取るためには必要な感覚だ。
実際、ベテラン登山者でも危険箇所では慎重になる。
問題なのは、「必要以上に身体が硬直すること」なのだと思う。
恐怖によって視野が狭くなり、呼吸が浅くなり、動きが不自然になる。
その状態が事故につながる。
経験を積むことで変わるのは、「危険への理解」である。
どこに足を置くべきか。
どの程度なら安定しているか。
自分がどこまで動けるか。
それが少しずつ分かってくる。
結果として、以前ほど過剰に恐怖へ支配されなくなる。
いつか図式は崩れる
もし、いま高度感に悩んでいる登山者がいるなら、過度に気にする必要はないと思う。
最初から痩せ尾根を平然と歩ける人の方が少数派だ。
むしろ、怖いと感じるのは自然な反応である。
重要なのは、無理をしないことだ。
怖い場所へ無理矢理突っ込む必要はない。
だが、少しずつ経験を積み重ねていくことで、感覚は確実に変わっていく。
高度感は消えない。
しかし、
「高度感 = 恐怖」
だったものが、
「高度感 ≠ 恐怖」
へ変化していく瞬間が、いつか訪れる。
そしてその変化は、登山を続けていく上で、大きな転機になるのかもしれない。





