朝の大倉バス停は、湿った曇天の空気に包まれていた。登山口に立った瞬間、今日の丹沢は完全にガスに覆われていることが分かった。
だが、それでも迷いはなかった。鍋割山、塔ノ岳、三ノ塔――三つのピークを踏み、白霧の稜線を縦走する。今日の目的は、景色ではない。いまの自分の体力と集中力がどこまで通用するのか、それを確かめることだった。
白い森を抜け、鍋割山へ
黒竜の滝を過ぎ、二俣へと続く森は、湿った空気に静かに包まれていた。木々の間から差し込む光はほとんどなく、沢の音だけが響く。渡渉点に足を浸すと、冷たさが一瞬で意識を覚醒させる。登山靴の中にじんわりと水が染み込み、歩きながらも体の感覚が研ぎ澄まされていくのが分かる。
標高1,000m付近に差し掛かると、世界は一気に白に包まれた。視界はほとんど消え、鍋割山への尾根道はまるで別世界のように感じられる。足元だけが頼りの、静かな稜線歩き。鍋割山荘に到着するころ、展望はないが不思議な安心感があった。白の世界は雑念を消し、歩くリズムだけを際立たせる。
山頂に立ち、ガスに包まれた稜線を眺める。遠くの山々は見えない。それでも心は満たされていた。景色は目に映らないが、足裏で地面を感じ、呼吸で空気を味わい、腕で重さを支える。山歩きの本質を、あらためて体感できる瞬間だった。

塔ノ岳へ、白の稜線をつなぐ
小丸、大丸、金冷シとアップダウンをこなしながら、塔ノ岳へ向かう。普段は展望が楽しい区間も、今日は白い世界が広がるだけだ。しかし、それが逆に歩く意味を鮮明にしてくれる。道の一歩一歩が、自分の存在を確かに刻んでいくようだった。
塔ノ岳山頂も真っ白で、富士山も相模湾も、遠くの稜線も姿を見せなかった。それでも歩いてきた距離と時間が確かに存在を証明している。ここでは、景色がなくても自分の軌跡が際立つのだ。


表尾根、核心の行者の鎖場
木ノ又大日、新大日、書策新道分岐、政次郎ノ頭。アップダウンを繰り返す尾根歩きは、ガスの中で一層緊張感が増す。霧に包まれ、視界は限られるが、耳には風と足音だけが残る。行者の鎖場に差し掛かる。ここは下りで通過したことはあるが、登るのは初めてだ。鎖を握り、濡れた岩に足をかける。視界がほとんどない中、足裏と手の感覚だけを頼りに慎重に一歩ずつ登っていく。終わったとき、緊張が解け、達成感がじわりと広がった。
行者ヶ岳、烏尾山を通過し、三ノ塔へ。崩落地帯の細い尾根も、足元だけを信じて進む。周囲は真っ白、目に映るものはない。だが、それがかえって歩く集中力を高めてくれる。


三ノ塔、白霧の頂
14時を過ぎ、三ノ塔に到着。山頂の展望はゼロ。けれど満足感は大きい。今日歩いた20km、累積標高差1,700m超の縦走は、ただの移動ではなく、白霧の中で自分を試す時間だった。景色に頼らず、自分の足、呼吸、体の感覚だけを信じて歩く。それこそが今日の価値だった。
下山の大倉尾根も静かに歩き、15時20分に大倉バス停へ。歩行距離20.8km、全行程8時間超。限界を試すつもりで臨んだ縦走は、まだ少し先へ進めることを教えてくれた。

コースタイム
| 時刻 | 行程 |
|---|---|
| 07:06 | 大倉バス停 出発 |
| 07:48–07:53 | 黒竜の滝 |
| 08:03 | 尾関広氏銅像 |
| 08:23–08:24 | 二俣 |
| 08:28 | 本沢渡渉点 |
| 08:48–08:50 | ミズヒ沢渡渉点 |
| 09:08–09:09 | 後沢乗越 |
| 09:38–09:45 | 鍋割山 |
| 10:01 | 鍋割山荘 |
| 10:23 | 小丸尾根分岐 |
| 10:33 | 大丸 |
| 10:53 | 金冷シ |
| 11:14 | 塔ノ岳 |
| 11:27 | 木ノ又大日 |
| 11:37 | 新大日茶屋跡 |
| 11:46 | 書策新道分岐 |
| 11:57–12:12 | 政次郎ノ頭 |
| 12:18–12:21 | 行者の鎖場 |
| 12:36 | 行者ヶ岳 |
| 13:00 | 烏尾山 |
| 13:12 | 三ノ塔地蔵菩薩 |
| 14:22 | 三ノ塔 |
| 14:51 | 43号鉄塔 |
| 15:20 | 大倉バス停(下山) |
まとめ — 白霧に刻んだ三峰の記憶
今日の縦走で得たものは、景色ではなく、感覚と記憶だった。
視界はほぼゼロでも、歩く足音、呼吸、体の重さ、足裏の感触だけが確かにあった。
三つのピークを越え、白霧の中を歩いたことで、自分の限界を試しつつも、新しい余白を得たような感覚になった。
景色がなくても、山は教えてくれる。
歩くことで、自分を知り、未来の一歩に力を与えてくれるのだ。
今日の縦走は、そんな一日だった。



